大口分水工の石碑は何?~その2~

前回、大口分水工の石碑は何?~その1~では大口分水工の社とそばの石碑についてを書きました。今回はその続きとして昔の写真にも残る黒い石碑についてのお話になります。

完成当時の大口分水工(昭和15年頃撮影か?)

大口分水工の記念碑

昭和10年度に工事が完了した大口分水工の記念碑

この石碑は大口分水工と善光寺平土地改良区の歴史を記したものになります。

大口分水工が建設された後昭和15年に、大口分水工設立の経緯を後世へ残すために建立された記念碑になります。

厚生 町田忠治

善光寺平灌漑の厳選裾花川は逐年減水の傾向あり為に収穫漸く耗り葛藤頻に起る長野市農會幹部井原岩吉堀内文作長田茂右衛門君等之の憂ひ率先犀川揚水の急を唱へ昭和四年一月期成同盟會を設く余適長野市長の故を以て會長に推され協心戮力關係各堰の結束水利訴訟の和解對岸の異論鎮壓國縣市への陳情等に惟懋め翌五年十二月遂に善光寺平耕地整理組合設立の認可を得たり其の地域長野市及長沼古里、柳原、朝陽、大豆島、若槻、安茂里、青木島の八箇村に亘り八幡山王、鐘鋳、犀裾、川合新田、四用水組合含み、水田面積千七百町歩を算す工事は縣榮に係り犀裾両岸の頭首工並に導水路を主とし総工費八十四萬圓を超え昭和十一年春竣成を告く是より先六年秋宮澤佐源次君専務副長に就き能く経営の任に膺る今や用水潤澤復旱害を知らす兒孫長へに豊穣の秌を楽むへし茲に紀元二千六百年を迎え本組合亦創立十周秊に會す仍て記念碑を建て由来を勒して後昆に傳ふと云爾

昭和十五年十一月 組合長衆議院議員從六位勲四等 丸山辯三郎 撰並書

現代訳

 善光寺平を潤してきた裾花川の灌漑用水は、年々水量が減少する傾向にあり、そのため農作物の収穫は次第に減り、水争いがしばしば起こっていた。
 この状況を憂えた長野市農会の幹部である井原岩吉、堀内文作、長田茂右衛門の諸氏は率先して、犀川からの揚水事業の必要性を唱えた。
 昭和4年(1929年)1月に期成同盟会を設立し、当時たまたま長野市長であった私(丸山辯三郎)は会長に推され、関係者が力を合わせて事業を推進した。
 その過程では、関係する各用水組合の結束を図り、水利権をめぐる訴訟の和解を実現し、犀川対岸からの反対意見を鎮め、さらに国・県・市に対して陳情を重ねるなど、ひたすら事業実現のために努力した。
 その結果、翌昭和5年(1930年)12月、ついに善光寺平耕地整理組合の設立認可を得ることができた。
 その区域は長野市および長沼村、古里村、柳原村、朝陽村、大豆島村、若槻村、安茂里村、青木島村の合わせて8か村に及び、八幡山王・鐘鋳・犀裾・川合新田の4用水組合を含み、水田面積は1,700町歩(約1,700ヘクタール)に達した。
 工事は県営事業として行われ、犀川両岸の頭首工(取水施設)および導水路の建設を主な内容とし、総工費は84万円を超えた。
 そして昭和11年(1936年)春、ついに工事は完成した。
 これに先立つ昭和6年(1931年)秋には、宮澤佐源次氏が専務副組合長に就任し、よくその経営の任を果たした。
 今や用水は十分に供給され、再び干ばつ被害に悩まされることはなくなった。子や孫たちは末永く豊かな実りの秋を楽しむことができるであろう。
 ここに紀元2600年(皇紀2600年・昭和15年)を迎え、また本組合も創立10周年にあたるので、記念碑を建て、その由来を刻み、後世に伝えるものである。

組合長・衆議院議員・従六位勲四等
丸山辯三郎

丸山辯三郎(まるやまべんざぶろう)氏は善光寺耕地整理組合の初代組合長になった方です。

記念碑にもある通り、その当時、長野市長として活躍をしていた人物です。

当時の総工費84万円は現代の価値に換算するとおおよそ10億円になります。それだけの大工事を行って水路や施設を建設し、今日まで維持管理を行っています。

当時の大事業である大口分水工や裾花頭首工の工事について、後世へその歴史を残したいとの思いからこの記念碑は建てられたようです。

記事一覧へ戻る