江戸時代初期

善光寺平の誕生

犀川と裾花川に囲まれた長野市を中心とする盆地は、古くから善光寺平と呼ばれています。この善光寺平の農地が切り開かれたのは今から400年程前、江戸時代の始まりのことです。
1603年(慶長8年)、徳川家康とくがわ いえやすが征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた前後で、善光寺平を含む信濃国川中島藩を治めるのに任命されたのは当時12歳の徳川家康の6男、松平忠輝まつだいら ただてるでした。
忠輝の家老である花井吉成はない よしなりと、その後を継いだ息子の花井義雄はない よしたけは、裾花川の大規模な治水工事を実施しました。当時の裾花川は、大雨のたびに氾濫し、川の流れさえ変えてしまう暴れ川でした。現在の長野県庁付近から東へ向かって何本にも枝分かれし、洪水のたびに周辺の農地に大きな被害をもたらしていました。
裾花川を現在の裾花川の流れに整えた、花井吉成と息子の義雄の行った大工事を「裾花川の瀬替え」と呼びます。この工事によって 裾花川の流れが変わり、かつて裾花川が流れていた善光寺平の大地に農地が切り開かれたと伝えられています。

大正

大正13年

干ばつと水争い

大正末期、全国各地で干ばつが起き、各地で水が枯渇する事態が起きました。
善光寺平でも裾花川の水量が激減し、農家同士で水の奪い合い、いわゆる「水争い」が頻発しました。農作物を育てるために不可欠な水が不足することは、農家にとって生活に関わる大問題でした。
当時、今の長野県庁付近では、鐘鋳堰組合と八幡山王堰組合が裾花川から取水していました。もともと水量が豊富とは言えない裾花川で、両組合は長年にわたって対立を続けていました。そのため、日中(明け六つから暮れ六つ)は八幡山王堰が、夜間(暮れ六つから明け六つ)は鐘鋳堰が水を利用するという時間制の取り決めがありました。
この時代は、川に直接「梁(やな)」と呼ばれる堰を作って水を引いていました。裾花川に梁を組んで、上流にある鐘鋳堰へ水を流す。時間が来たら、八幡山王堰組合の人間が梁の一部を壊して水を下流に流し、八幡山王堰の水路付近に梁を築いて水を取る、という取り決めも行っていましたが、明け六つ、暮六つという概念自体が不定時法のため曖昧さであり、たびたび水争いが起こっていました(1)。
そうしたなか起こった大正13年の大干ばつでは、八幡山王堰側が鐘鋳堰の梁を破壊し、鐘鋳堰に水が流れなくなりました。これにより対立は激化し、流血の騒動となり、ついには農民たちが長野県庁まで押しかけて直訴する事態となりました。この問題は訴訟にまで発展し、新聞でも報道されるほど、地域全体を巻き込む大事件となりました。

参考:
(1) 長野市誌第8巻 第1章第5節1用水
https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100080/ht000860
大正13年8月(100年前)
簗の築造・取壊し

昭和

善光寺平土地改良区の誕生

昭和5年〜10年

県営善光寺平農業水利改良事業の実施

水争いの解決を図るべく、当時の丸山辨三郎まるやま べんさぶろう長野市長を中心に、地域の農家が協力して期成同盟会を結成しました。こうして地域が一体となった結果、県営善光寺平農業水利改良事業が実施されることになりました。
この事業により、それまでの川からの直接取水方式を改め、裾花頭首工を建設し、各用水組合への水路と大口分水工を整備しました。さらに、裾花川だけでは水量が不足するため、犀川からも取水することとし、犀川頭首工を建設、安茂里地区に二堰分水工を設置して用水路網を整備しました。大口分水工には、この水争いの歴史を後世に伝える石碑が建てられています。

大口分水工に建てられている石碑

昭和15年

小田切ダムと犀川頭首工の建設

このころ、犀川の河床低下と変動により取水が困難になる恐れが生じ、犀川の右岸側(南側)の下堰(しもせぎ)、鯨澤堰(けいざわせぎ)、小山堰(こやませぎ)の改修と統合計画が持ち上がりました。しかし当時は日中戦争のさなかで、実現にはいたらずに計画はたち消えることとなりました。

昭和21〜25年

統合計画の再開

戦後、あらためて3堰から県へ、事業再開の請願書が提出されました。調査の結果、犀川から取水する7つの用水路(上中堰、下堰、鯨澤堰、小山堰、善光寺平用水、四ヶ郷用水、小市用水)全体の改良が必要との結論に達し、昭和25年10月には善光寺川中島平農業水利改良促進期成同盟会が発足しました。

昭和27年

東京電力からの要請

しかしこの年、東京電力株式会社(現東京電力リニューアブルパワー株式会社)による小田切発電所の建設計画が具体化し、各用水組合への協力要請がなされました。戦後復興による電力需要の高まりと、食糧増産のための農業振興という二つの要請の間で、関係者の意見は対立しました。

昭和28年〜39年

小田切ダムと発電所を建設

長野県の仲介により合意が成立し、小田切ダムと発電所を建設することに。7つの堰のうち、上中堰と小市用水はダム上流から取水し、残り5つの堰(下堰、鯨澤堰、小山堰、善光寺平用水、四ヶ郷用水)は、ダム下流の左岸側(北側)に統合取水口となる犀川頭首工を建設して取水をすることになりました。さらに、犀川の下を通るサイフォン水路を建設し、右岸側へも水を供給する仕組みが整備されました。
この事業期間中、鯨澤堰と小山堰が合併して川中島平土地改良区となり、善光寺平土地改良区も四ヶ郷土地改良区と合併しました。

東京電力リニューアブルパワー(株)
小田切ダム発電所

昭和42年

善光寺川中島平土地改良区連合の誕生

完成した犀川頭首工は3つの土地改良区へ水を供給する共同施設であるため、昭和42年8月2日に善光寺平土地改良区、下堰土地改良区、川中島平土地改良区による善光寺川中島平土地改良区連合が組織され、共用部分の管理運営を担うことになりました。

犀川頭首工の写真

平成

犀川の河床低下と
新サイフォン水路の建設

平成に入ると、昭和に建設された犀川サイフォン水路に新たな問題が生じました。犀川の河床低下により、水路管が地表に露出する危険性が出てきたのです。
平成8年、新しいサイフォン水路の建設が決定し、7年の歳月をかけて平成15年度に完成しました。新水路は旧水路から200メートル下流に建設され、これに伴い、サイフォン水路の出入口となる左岸防災水門と右岸防災水門も新設されました。
両防災水門はその名の通り、災害対策機能を有している水門です。地震などの非常事態により犀川の下を通るサイフォン水路に亀裂が生じ、犀川の水が流入してしまい水が溢れてしまう事態を防ぐために、制水ゲートが備えられています。

令和

水のある景色を、未来へずっと

昭和のはじめからおおよそ100年の歳月を経てなお、善光寺平の用水路は毎年各所で改修・補修工事を続けながら、地域の農地に水を供給し続けています。長野市の区画整理などで一部の水路は新しく作り直されましたが、大部分は大正、昭和、平成を経て、今も現役で活躍しています。
用水路は、人間でいう血管のような存在です。ゴミを取り除き、適切に水を配分することで、善光寺平の水田を潤す重要な役割を果たしています。
善光寺平土地改良区は、この水路を守り、未来へ引き継ぐことを使命としています。用水の歴史は地域の農業水利慣行の歴史そのものであり、次世代へ確実に伝えていかなければなりません。用水路を維持し、地域の農業振興を支え、未来へつないでいく。そのような想いを胸に、日々の業務に取り組んでいます。

用水路にいる蛍