日本の穀物の歴史 ~古代編~

私たちが普段食べているご飯やパン、麺類などのいわゆる主食と呼ばれるものは、穀類と呼ばれ人間の生活を支える重要な食べ物です。今回はそんな穀物の歴史の話になります。

穀物って何?

現在の食事においてよく言われるのは6大栄養素と呼ばれる、炭水化物、タンパク質、脂質、ビタミン、ミネラル、そして食物繊維を取りましょうということですが、この中の炭水化物を主とする食物が穀物になります。

この穀類と人間の歴史は古く、世界最古の穀物と言われる大麦は今から1万年前の現在で言うイラクの辺りで栽培がはじまったとされています。

成長した大麦

日本人の主食として馴染み深い穀物である米は、約3000年前の縄文時代後期に日本に伝わり、農耕生活の基盤となる食べ物になりました。

また、パンや麺類の元となる小麦は4世紀ごろのヤマト王権時代には栽培がされていた痕跡があり、米とともに食べられていたと考えられます。

その他にも今では高い栄養価や食物繊維の豊富さで注目されている稗(ひえ)や粟(あわ)といったいわゆる「雑穀」も当時は一般的に食べられていた穀物です。

再注目されている雑穀

なぜ日本で米栽培が盛んだったのか?

米が伝わった縄文時代

縄文時代後期に日本に伝わった米ですが、伝わった当初はまだまだ栽培方法が確立されていたわけではなく、今のような水田を作るというよりは、稲籾を蒔いて粟や稗と共に食べるというようなことが行われていたようです。その当時は、稗や粟などの雑穀やどんぐりなどの堅果類を食べていた痕跡も残っており、主食の選択肢の一部に過ぎなかったようです。

・農耕が広がる弥生時代

縄文時代から弥生時代に入ると水田耕作の技術が大陸から伝わり各地に広がっていきました。様々な痕跡から北九州から東海地方まで急速に水田耕作が広まっていったようです。
しかし、水田耕作はその方法や必要な道具、道具を扱う技術と多くの分野が必要なことを考えると全国的に広がるにはいささか伝播するのが早すぎる気もします。
これは推測にはなりますが、稲作栽培がされる以前から縄文時代に各地域で行っていた独自の農耕技術と合わさることで各地域に急速に広がったのではないかと考えられます。

石庖丁(いしぼうちょう)、稲を穂首刈りした道具と考えられている 出展 ColBase

水田耕作技術の発展とともに米の収穫量が増え、狩猟と違い計画的な食料生産が可能になり、米は主食としての日本での地位を確立していきます。また、米作りを中心とした社会が作られはじめ、米作りを中心的な行動指針とする集団が形成されていきます。

この集団が各地で形成され、人口が増えてくると、耕地や水を求めて違う集団との争いが起きました。こうして各地で集団による争いと統合を繰り返し、各地にクニ(小国)が生まれました。

クニ同士も同じく争いを繰り返しながら地域ごとにまとまりを作っていきます。やがて大きなまとまりとしてヤマト王権が台頭しはじめます。ヤマト王権は周辺の大きなクニを治める豪族を取りまとめ、徐々にヤマト王権中心の中央集権国家を形作りました。

飛鳥時代の米の役割

ヤマト王権が政治の中心となり豪族をまとめながら国家運営を行っていた体制は、厩戸王(聖徳太子)の時代に天皇を中心とした国家への基礎が築かれ、646年の大化の改新をきっかけに律令国家の形成が進みました。また、大化の改新以降は「土地と人民は国家が管理する」という公地公民の考え方が進み、それまで豪族が各地で支配していた土地や人民を中央政府である朝廷が管理する体制へ移行していきました。

聖徳太子二王子像 出典:ColBase

この時代から米は食べるためだけのものではなく、税として国家財政を支える重要な役割を持つようになりました。

律令制のもとで「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」が行われ、朝廷は戸籍を管理し、6歳以上の人民に口分田を与え、死後には返還させました。また、口分田を与えられた人々は、収穫の一部を米で納める租、労役や布を納める庸、地方の特産品を納める調の負担を負うことになりました。

農地の拡大を目指す奈良時代

律令国家として歩みを進めていった朝廷ですが、次第に租調庸制の負担の高さから戸籍を偽って税を逃れたり、逃亡する人民がでてきました。当時の租庸調のうち、庸と調の負担は大きく、例えば庸による労役があったとしても他の税負担は軽減されず、労役へ出向いた先での衣食住は人民が自身で負担しなければならず、調においても地方の特産品を収めにいく費用は人民の負担となりました。

税負担の問題とそもそも土地の開墾がなされずに水田が不足する自体になり、朝廷は水田の開墾を進めるために三世一身法を出しました。

三世一身法は農地を開墾した農地を3世代まで所有することを許す法で、今まで公田として朝廷が管理していた田を農民が所有できるようにする法律です。

しかしながら三世一身法は結局開墾した田を朝廷へ返還しなければならないことには変わりないため、開墾の意欲を高めることはできず、田を新たに増やすことにはあまり繋がらなかったようです。

そこで新たに朝廷は墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を制定しました。今まで朝廷の財産であるとされていた田を永年にわたり私財とすることができる様になったのです。

墾田永年私財法によって豪族や寺社が開墾を進め私田を広げ徐々に力をつけ始めました。この私田を含めた豪族や寺社の土地を荘園(しょうえん)と呼びます。

荘園により各地域の豪族たちの力が増していき、徐々に荘園を巡る争いと農民達が自衛のために武装をし、武士となっていきます。

米とともに歩みを進めていった古代日本

このように古代日本に稲作とその栽培方法が持ち込まれ、人々の主食となる作物として定着した米は、人々にとって食生活の基盤となり、やがては税や富の象徴として、食べ物としてだけでなく富の象徴としての価値を持ちながら日本人の生活や文化、政治と密接に関わる作物となっていきました。

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