長野市内の犀川以北から浅川の南側までの地域を流れる農業用水は裾花川と犀川からの水を取り、農地を潤しています。

この裾花川から水を取る施設を「裾花頭首工」といいます。

裾花頭首工は昭和10年(1935年)に完成した取水施設です。完成から90年以上となる長野県善光寺平土地改良区の管理する中で一番古い施設になります。
この裾花頭首工は現在も整備や修繕を行いながら緊急時に利用するための予備取水口としていつでも使うことができるようにしています。
ではなぜこの施設ができたのか?
時は大正13年(1924年)まで遡ります。
大正13年は全国的に降雨が少なく全国的にも干ばつになりました。
大正時代はこうした干ばつが度々起こっており、記録されているもので大正元年(1912年)、大正7年(1918年)、そしてこの大正13年の干ばつにより、農業は大きな打撃を受けました。
善光寺平の地域についてもそれは例外ではなく、干ばつになるたびに水を求めた争いが起こりました。これを「水争い」と言います。
特に激しい水争いが起こったのが鐘鋳堰の人々と八幡山王堰の人々による水争いでした。 当時はイラストのように裾花川の上流部で鐘鋳堰が、下流で八幡山王堰が取水を行っていました。

取水の方法は裾花川に梁と呼ばれる岩や丸太などで作る壁を築き、水の流れを堰と呼ぶ農業用水路へ誘導する方法を取っていました。 上流部の鐘鋳堰が梁を築き、暮れ六つから明六つ(午後6時から翌朝6時まで)の夜水を取り、鐘鋳堰の梁の一部を八幡山王堰が壊して昼の間は水を取るという方法で水を取っていました。そして時間になれば鐘鋳堰が梁を元に戻してまた水を取るということを繰り返していました。

当時から取り決めがなされ一定の基準を作り水利運営をしてきた両堰の人々ですが、干ばつが続き、取り決め通りの取水では両者ともに必要な量の確保ができない事態になったわけです。
水を求めて互いに対立が深まり、とうとう怪我人が出る事態になりました。 こちらはこの当時の新聞記事になります。水争いにより警察が出動する事態になり、水の権利をお互いに主張することで裁判に発展しました。

裁判が行われる中、事態の解決のために、当時の長野市長である丸山辯三郎氏と長野市、農民が一丸となり、水利状況を改善するために動き出しました。
こうして裾花川から個別に取水を行っていた各堰の取水から一つの取水口を作り、そこから新たな用水路を作ることで必要な量を確保するために、裾花頭首工が作られました。

裾花頭首工からの取水と各種用水路、分水工の整備によってそれぞれの用水堰に水を供給することが可能になり、鐘鋳堰、八幡山王堰による裁判は和解となりました。
こうしてこうして善光寺平土地改良区の始まりの施設として今もなお現役で活躍している裾花頭首工ですが、今日までに何度か補修工事が行われています。